
「誰よりも練習した」タイ代表のセッター
アジアが誇る、世界の司令塔――。
ヌットサラ・トムコムが初めてバレーボールと出会ったのは9歳の時。姉について練習へ行ったその場所で、コーチの思わぬひと言が、彼女の人生を今へと導いた。
「『一番上手にパスができた人にプレゼントをあげよう』と言われて、ただ何も考えず、楽しみながらボールを扱っていたら、『君が一番上手だからセッターになるべきだ!』って。結局、プレゼントなんて何もないんですよ(笑)。そう言えば上手にできるだろうと思って言った言葉に乗せられて、一生懸命やっていたら『あなたはセッターね』と決められた。そこからはずっとセッターをして、気づけば30年が過ぎました」
明るい笑顔と、卓越したコンビネーションバレー。攻撃する選手は1人ではなく、何人もが同時に入ってきて、そのすべての選手に向けて、離れた場所からトスを上げる。世界を魅了するヌットサラのセッター人生は、彼女が生まれ育ったタイの中部の県、ラーチャブリーで存在しないプレゼントにつられて誕生したが、当時はナショナルチームなど想像もできないほど小さなクラブで、バレーボールの技術力向上よりも楽しむことを目的にしていた。彼女のトスワークが本格的に磨かれたのは、バンコクの高校へ入学してからだった。
日本のように、小学校や中学校ですでに全国大会が行われるわけではなく、タイのスポーツの中心はバンコクに集中する。「運よく自分も進むことができた」というヌットサラの転機は、バンコクの高校に入学してまもなく訪れた。「セッターになるべき」と言われた時と同じように、当時のコーチにかけられた言葉が、また彼女の運命を導くきっかけになった。
「『君はバレーボールを学びたいのか?』と聞かれたので、私は『学びたい!』と即答しました。その時、バレーボール選手としてのキャリアの窓が開いた。そこから、タイのアンダーカテゴリーに選ばれるようになったんです」

同世代のプルームジット・ティンカオ、ウィラワン・アピヤポン、アンポーン・ヤーパー、オヌマー・シッティラック、マリカ・クントーンといった後に世界選手権やワールドカップでも長きにわたりタイ代表として戦ってきた選手たちに出会ったのもその頃だ。皆通う学校は異なっていたが、16、17歳の頃からナショナルチームに選出され、共に技を磨き合ってきた。
日本と同様にユース、ジュニアといったアンダーカテゴリーとシニア代表があるが、カテゴリーは違っても練習メニューや考え方はほぼ同じ。代表チームに入るまではまずフィジカルトレーニングに時間を割き、そこから細かな技術や戦術に目を向ける。
コートのどこにいても自在に攻撃を操る。まるで「後ろに目がついているのではないか」と比喩されたコンビネーションや、セッターとしてのスキルが磨かれた背景には、地道な努力を重ねた日々があったと振り返る。
「ただただ毎日、誰よりも練習しました。誰よりも早く来て、誰よりも遅くまで練習する。自分の技術を上げることはもちろん、スパイカー全員がどういうトスを好むかを把握したかったし、上げられるようになりたかったので、毎日ボールに触る。そのうえで、毎回スパイクを打った後には『今のボールはどうだった?』とアタッカーに聞いて、フィードバックする作業を続けてきました。なぜなら、セッターはスパイカーの意見を聞いて合わせるポジションだと思っていたから。スパイカーがセッターに合わせるのではなく、スパイカーの意見を聞いて合わせることがセッターの重要な仕事だと思って、私は長い時間練習を重ねてきたし、チームメイトたちも私のことを信頼してくれて、私もみんなを信頼していた。だから『後ろに目があるんじゃない?』と言われたことが何度もありましたが、目はついていないですよ(笑)。みんなを信じて、プレーすることが私のすべてでした」

ヌットサラが憧れた日本のセッター
代表入りを果たして以後、ヌットサラのキャリアは飛躍的に進化を遂げていく。2003年のワールドグランプリで初めてシニア代表として国際舞台を経験し、翌年は五輪予選にも出場。さまざまな大会でヌットサラ自身もタイ代表も存在感を発揮する中、彼女自身が「数え切れないほどたくさんの思い出がある」と振り返る代表生活の中で「最も印象深い」と挙げたのが2009年のアジア選手権だという。
なぜその大会なのか、と尋ねるとヌットサラが満面の笑みを浮かべた。
「タイ代表として初めてアジアで優勝できた大会で、私もベストセッターを受賞することができた。あの喜びは今でも覚えています」
目標を達成し、誰もが認め、憧れる技術があっても、もっといいセッターになりたい。もっと強いチームになりたい、と飽くなき挑戦を続けてきた。象徴的なのが、より成長するために、とヌットサラはタイ国内だけでなく、アゼルバイジャンやトルコといった欧州リーグでもプレーしてきたことだ。
「タイで長くプレーする中でアジアのシステムはすべて理解していました。そこから技術を向上させるためにどうするか、と考えた時、違うシステムを学ぶために違う場所へいかなければならない、と思ったんです。じゃあそれはどこか。タイ代表として勝つことができなかったヨーロッパだ、と。私がヨーロッパへ行き、プレーして学ぶことで、タイ(代表)に戻ったとき、そのシステムや強さを伝えられればタイはもっと強くなると思って(海外移籍を)決めました」

ヌットサラだけでなく、世界各国の代表チームで主軸を担う選手が揃う。その中で「一緒に成長することができた」というヌットサラにとって、もう1つ、常に「意識してきた」というのが日本だった。タイと同様にフィジカルでは世界と比較すれば劣るが、それを補うコンビバレーと守備力を磨く。数え切れないほどの対戦を振り返り「毎回のラリーが長くて、いつもシーソーゲームが続く本当に疲れる相手」と言うのも決して大げさではない。
記憶に残るのは、2016年。五輪出場をかけた最終予選で、日本代表とタイ代表はまさに死闘というべき試合を繰り広げた。最終第5セットで6点をリードして終盤を迎えながら日本に大逆転を許したタイ代表にとっては苦い記憶でもあるが、ヌットサラから出てくるのは日本代表や、日本選手に対するリスペクトの言葉ばかり。
中でも、対戦のたびに“セッター対決”として注目を集めた日本のレジェンドと呼ぶべきセッターを、身振り手振りを交えながら「オーマイゴッド!」と満面の笑みで称える。
「タイ代表に入って、初めて日本と試合をした時のセッターが竹下(佳江)さんでした。身長は小さいけれど、すべてのトス、振る舞い、彼女は本当に素晴らしかった。彼女の存在は、私にたとえ小さくても世界の高いレベルで戦える、と刺激と自信を与えてくれたんです。だからいつも必ず竹下さんの試合やプレーはビデオでチェックしてきたし、158センチという身長が信じられないほど、彼女はコートの中ではいつも巨人のように見える存在でした」

いつも笑顔の“コミュニケーションモンスター”
8年に及ぶ欧州リーグ、そしてアメリカプロリーグでのプレーを経て、2025年、ヌットサラが新たな挑戦の場として選んだのが日本のSVリーグ、クインシーズ刈谷だ。
実はこれまでも日本からのオファーがあったと明かすが、実現には至らなかった。「常に新しいことへ挑戦するのが自分のモチベーション」というヌットサラだが、日本からの誘いを受けてもアジアとは異なる欧州やアメリカでの刺激を求めたため「縁がなかった」と語るが、ではなぜ、このタイミングで日本でのプレーを決めたのか。
「新しいことにチャレンジしたい、と考える中で(クインシーズから)アシスタントコーチとしての新たな誘いがあった。これはやってみたい、と思ったんです」
惹かれた理由もある。自身が幼い頃、小さな町ではなかなかバレーボールをトップレベルで続ける環境がなかった。今は少しずつ裾野は広がっているが、それでも日本のように小学校や中学校で当たり前にバレーボールができる環境ではないため、若い世代がバレーボールをできる環境をつくるため、自国で8歳から18歳までの男女を対象としたアカデミーを設立した。
「日本がどんな教育、トレーニングをしているかを学ぶことはタイのバレーボールにもつながる。タイは日本になかなか勝てないので、なぜ勝てないのか。何が足りないのか。それを学ぶための要素が見つかるのではないか、と思って日本でプレーしながらアシスタントコーチをやってみたい、と決断しました」
開幕からここまで、ヌットサラがユニフォームを着てコートに立つことはまだないが、日頃の練習では自らトスを上げ、技術や考え方、自身が培ってきたすべての経験をクインシーズの若いセッターたちに包み隠さず伝えている。

「若い彼女たちはいつも私にアドバイスを求めてくれる。本当にかわいい、真面目な子たちばかりで、私は彼女たちを全力でサポートしたいと思っているので、練習前や練習後、食事やストレッチのときもいつも彼女たちと話をするし、オフの日も含めて、すべてクインシーズの選手たちに捧げたいと思っています。それは、私にとっても幸せなことなんです」
時間をともにする選手やスタッフからは、技術はもちろんだが1人1人とコミュニケーションを図ることに関してはもはや天才的で、“コミュニケーションモンスター”とも称されていることを伝えると、手を叩いて嬉しそうに笑う。
「練習中も常にしゃべっているからかな(笑)。私はもともと声が高くて大きいから、響くらしくて。日本に来たばかりのとき、あまりに体育館の中が静かだから『ここでしゃべっていいの?』と聞いたぐらい、私はおしゃべりだし、みんながよく笑ってくれる。特に(鴫原)ひなたは私が何を話してもいつも嬉しそうに応えてくれるから大好きなんです。みんな本当にかわいくて、練習中から『がんばれ、がんばれ』と笑顔でお互いを鼓舞できる子たちばかり。クインシーズは、本当に素晴らしいチームで、これからもっとよくなるチームです」
かつてヌットサラ自身が日本に刺激を受けたように、今は若い選手たちが学びと多くの刺激を与えられている。ならばもう1つ、願わずにいられないことがある。
いつか、クインシーズのユニフォームを着て試合でプレーする姿が見たい、と。
「それはまだ考えていませんでした(笑)。今はまず、若いセッターたちに試合経験を積ませて技術を向上させて、彼女たちが10年後にもっと素晴らしい選手になれるように。私が(試合のコートへ)立つのはいつになるかわからないけど、その日が来るといいですね。私もチームとともに全力で戦いますので、ぜひ、会場で応援して下さい」
茶目っ気たっぷりの“コミュニケーションモンスター”の絶品トスを、ぜひ日本で――。誰もが、その日を心待ちにしている。

取材・文:田中 夕子
