
クールなセッターの魅力は“ギャップ”
ルーキーイヤーからセッターとしてスタメン出場を重ね、最優秀新人賞を受賞。しかも同じ年にユニバーシアード代表に選出されて銀メダルを獲得し、昨年は日本代表で韓国遠征も経験した。クインシーズ刈谷での3シーズン目を戦う髙佐風梨は、着々とキャリアを積み重ねているが、これまでの道のりを振り返ると「こうなるなんて考えもしなかった」と笑う。
「もともと夢が“春高バレーに出場すること”だったので、バレーボールは高校で辞めようと思っていたんです。まさか自分が、トップリーグまで続けて、そこでプレーする選手になるなんて想像もしていませんでした」
コートの中では冷静沈着な司令塔。1つ1つのプレーや結果に一喜一憂せず、表情1つ変えることなくクールに振る舞う。それもセッター髙佐の戦う姿ではあるが、実はそれだけではない。人見知りは自認するが、もともとは奈良出身の関西人だ。
「ファンの方に接する時は『ありがとうございます』ぐらいしか言えないんですけど、実はめちゃくちゃよくしゃべる。プライベートは明るい人なんだ、っていうところも知ってほしいですね(笑)」
歩んできた道のりと、プレー時とは異なる素顔のギャップ。知れば知るほど面白い。髙佐風梨は、まさにそんな選手だ。

4人姉妹の三女「負けず嫌いの甘えん坊」
3歳上の姉と1歳上の姉、そして8歳下の妹。4人姉妹の三女は、姉たちを見て育ってきた分要領はいい反面、甘えん坊で負けず嫌いだった。
「年齢が離れていてもとにかくよくケンカをしました。誰の服を借りたとか、返さないとか、見たいテレビがあるとか。物を投げたり、ベランダに鍵をかけて閉じ込めたり、それこそしょうもないことばっかりですよ(笑)。妹と一番歳が離れているから、私が末っ子の時間も長かった分、甘えん坊でもあるんですけど、お姉ちゃんたち相手にも絶対ケンカでは負けないし、負けたくない。手を出されたら倍にして返す、めっちゃ強い子どもでした(笑)」
バレーボールを始めたのは小学3年生の時。母の影響で次女と一緒に、同じクラブへ入った。何となくやってみよう、という始まりではあったが、実はセッターを経験したのも小学生の頃。
「チームメイトにすごいスパイカーが1人いたので、その子へつなぐために私が2本目を上げる係でした。コンビも何もないし、ただ高く上げるだけでした」
チーム自体はそれほど強かったわけではないが、バレーボールは楽しかった。中学も、姉と同じ学校へ進んだが、バレーボールの強豪校どころか部員は数えるほどしかいない。
「ネットは張るけど先生がいない時はバドミントンをしたり、ドッジボールをして遊んでいました。見つかるとさすがに怒られるので、かくれんぼする時はみんな1つずつボールを持って隠れて、先生が体育館に来る気配を感じたら、『ボール見つけた』と出てきて、かくれんぼが終わる(笑)。バドミントンのラケットを持っていても、『スイングの練習をしていました』と遊んでいたのがバレないようにごまかす。今思い返しても、全然、バレーボールやっていないですね(笑)」

ではなぜ、後にSVリーグの選手、さらには日本代表へも呼ばれるような選手になっていくのか。人数の少ないチームでは、小学生からバレーボール経験のある髙佐が必然的に打つ回数が増える。「1本目(のレシーブ)を拾って、誰かがトスを上げてひたすらスパイクを打つ」というワンマンスタイルが目に留まり、中学3年時に奈良選抜へ選ばれ、全国大会に出場。卒業後はセッターとして声がかかった奈良女子高へ進んだ。
セッターとして試合に出場するだけでなく、1年時からインターハイ、春高にも出場。2年時にはベスト8へ進出した。クインシーズでチームメイトになる鴫原ひなたや、同じ近畿には大阪・金蘭会高の中川つかさ(NECレッドロケッツ川崎)など、同世代の顔ぶれは豪華で、今は同じ場所で戦う選手も多い。だが当時は負けず嫌いな髙佐でも「ライバルだと思うことレベルじゃなかった」と謙遜ではなく本気で言うほど、レベルの違いを感じていた、と苦笑いを浮かべる。
「近畿大会で金蘭と当たった時に4点か6点しか取れずに負けたのを覚えています。たまたまその後順位決定戦で勝って、3年の時に初めて国体へ出場できたんですけど、『金蘭にボコボコに負けた奈良が行けるんだ』って言われたのも覚えています(笑)」
それでも、中学を卒業する時に将来の自分へ充てた手紙に書いた「春高バレーに出る」という夢は叶えた。そこでバレーボールは終わり、のはずだったが、むしろそれからが本格的なバレーボール選手としてのスタートだった。

ラグビー部のマネージャーか“銀行員”を目指した大学時代
出身地である天理市にある天理大がさまざまなスポーツの盛んな大学である影響も強く、高校を卒業したら「天理大で野球部かラグビー部のマネージャーになりたい」とぼんやり描いていた。そもそも夢を叶えたのだから、あとは自分の生きたいように、と考えていたが、当然高校の監督には「もっとバレーボールを真剣にやったほうがいい」と促され、親元を離れ、自立するために関西ではなく関東一部の東京女子体育大への進学を決めた。
大学による違いもわからず進んだが、周囲からは「高校に比べると大学の練習は緩い」と聞かされていた。それならば東京で、部活もしながらアルバイトもして、たまにはオシャレをしたり、一人暮らしを楽しめるかもしれないと胸を躍らせたが、現実は真逆だった。
「1年生の時は実技と座学で1週間、全部授業が詰まっているうえに朝練と放課後の練習もみっちりある。遊ぶどころか、忙しすぎて何も考えずにただひたすら毎日過ごすのに精いっぱい。練習自体もハードだったので、こんなにやるのか、とびっくりしたんですけど、でもこれだけやるからこそきっちりしたバレー部なんだな、と理解できたのでつらいとは思わなかった。4年間ここで頑張ろう、と素直に思うことができました」
結果だけを見れば「負けっぱなしだった」というように、4年時の東日本インカレ準優勝を最高成績に、リーグ戦や全日本インカレでは目指した結果を得ることはできなかったが、1つ1つ、負けも自分の力にしながら乗り越え、大学では教員免許も取得した。教員か、バレーボールを続けるか。卒業後の進路が少しずつ狭まっていく中、実は髙佐には別の夢もあった。

「銀行員になりたかったんです。何で、と言われると理由はないんですけど、安定した職業というイメージも強かったし、高校の頃から憧れもあった。実際に銀行で9人制のチームを持っているところもあって、大学の先輩もいたので、その時は本気でお願いしようと思っていました」
もしもそのまま9人制の道へ進んでも、きっとセッターとして持つ技術は存分に活かされたはずだ。だが東京女子体育大の今丸好一郎監督からは「何で銀行員になりたいのか、という理由が曖昧なら、本気でバレーボールをしたほうがいい」と勧められ、4年の夏にクインシーズの練習へ参加した。そこからはトントン拍子で入社が決まり、ルーキーイヤーから活躍。今へとつながる道を歩んできたのだが、順調に見える道のりも決してそうではなかった、と回顧する。
「バレーボール選手になりたいと思ったみんながみんな立てる場所ではないところなので、大変は大変です。実際に同じ学年の子たちは、すごい選手もたくさんいたけれど、早く引退した選手もいっぱいいたので、すごくシビアな世界だな、とも感じます。でもだからこそ楽しまなきゃ、とも思うし、どんな時も自分がやるべきことは変わらず、選手としてバレーを頑張るだけ。そう思ってやってきているので、振り返るとここまで本当にあっという間でした」

「セッター同士でここまで話し合える環境はなかなかない」
10月に開幕した2025-26シーズンのSVリーグも佳境を迎え、チャンピオンシップ進出を決めた。後半に差し掛かる中で勝ち星を重ねていることもチームの雰囲気を高める要素だが、髙佐自身も「本当に楽しいし、チームとしてすごくいい状態で戦えている」と噛みしめる。その原動力になっているのが、自分1人ではなく、山口頌平、選手も兼任するヌットサラ・トムコムという2人のセッターコーチと、佐藤彩乃、加地春花の2人と“セッターチーム”として戦っている実感があるからだ。
「みんながめっちゃ仲良しで、週に二度のミーティングもチームやセッターの状況、状態によって2時間ぐらいの時もあれば、30分の時もあるけれど、その時々で必要なことを何でも話し合える。オンの時だけじゃなくオフの時間も一緒にいる時間が多くて、ご飯を一緒に食べに行くのもしょっちゅうだし、ヌットサラがとにかくUNOが好きなのでみんなでUNOもする(笑)。食事に行っても結局バレーの話をすることが多いけど、セッター同士でそこまで話し合える環境ってなかなかないし、今年は彩乃さんや春花に相談することも増えた。昨シーズンと比べたら自分自身は試合に出る時間は減りましたけど、でも誰が出てもセッターが活躍したら、セッターみんなが嬉しい。ネガティブじゃなく、ポジティブな感情しかないです」
セッターに限らず、それこそが今、クインシーズの武器であり魅力だと胸を張って言える。
「見ている方にも熱さだけでなく、メンバーみんながクインシーズを大好きだと伝わると思うんです。だからこそ、出ている選手を、出ていない選手がどうやって助けようとしているところや、セッター以外のポジションもみんなが切磋琢磨しているところを見てほしいです」
クールな中に秘める情熱。やはり、知れば知るほど髙佐風梨は面白い。



